自転車に乗れるようになった頃

ほどよくスカスカでのろのろと走る電車に揺られながら、小学校低学年の頃のことを思い出していた。

同学年の子がみんな自転車に乗れるようになって、年上の子たちにくっついて近所を走りまわっていた頃のことだ。

年上の子たちは当然自転車の扱いが私たちよりも上手く、中には両手を放して乗れる子もいた。

私たちはそれが羨ましく、片手ずつ放してみたり、時々一瞬だけ両手を放してみたり、そうやって「両手手放し運転」を練習していた。

両手を離して乗れる時間は少しずつのびていって、みんなで競ったりしていた。


ある時、いつものようにみんなで「両手手放し運転」の練習をしていたら、立ち話をしていた近所の奥さんが私に向かってこう言った。
「女の子がそんな乱暴なことやめなさい!」
私は猛然と怒った。
「女の子だからっていうのはおかしいでしょ!」
驚いた奥さんはおどおどと返した。
「だって…転んだりしたら危ないじゃない…」
「それは男の子も同じでしょ!なんで女の子にだけやめろって言うの?!」
奥さんは、まるで化け物でも見るような、怯えた顔をしていた。

 

「両手手放し運転」は危ない。

自転車に乗れるようになったばかりのこどもがやるのだからいっそう危ない。

怪我をしたら一大事。それはわかる。

でも、どうして男の子には言わないんだろう?

どうして私だけ怒られたんだろう?

男の子は危なくてもいいってこと?

女の子は危ないけど男の子は危なくないってこと?

そんなの全部おかしいじゃないか。

ひいきはダメ、仲間はずれもダメ、みんな仲良く、みんな一緒に、みんな平等に。

いつもそう言う大人たちは、こんなふうに相手の性別によって言うことを変えてしまうのだ!

私は「みんな」じゃないっていうのか!

 

うまれて初めて味わった「性別による扱いのちがい」だった。

 

 

 

 

まあしかし、「両手手放し運転」は危ないからやめた方がいいと思うし、いつか誰かしら転んで怪我したかもしれないと思うので、注意してくれたこと自体はありがたいと思う。今なら。

でもなんでそういうことに性別を持ち込んで態度変えたりするかな〜!というのは今でも思う。

絵本『ウエズレーの国』感想

先日参加した読書会で『ウエズレーの国』という絵本を紹介された方がいた。
紹介の内容を聞いて、子供の頃にこんな本を読みたかったなあ、と思った。
そんなわけで、図書館で借りてじっくり読んでみたよ。

あらすじとしては、周囲から浮いてる、変わってる少年・ウエズレーが、夏休みの自由研究で自分だけの文明を作って(!)、それによって周囲に受け入れられる…的な感じだ。

いや、周囲に受け入れられるというよりは、周囲の方から寄ってくる、という感じかな。


さて物語冒頭では、両親からも、あの子はいつもひとりだけはみだしててかわいそうだ、とか確かに浮いてるな、だとか言われている。

私だったら両親がそんなこと言っているのを聞いてしまったらけっこうショックを受けるかもしれない。
でも、それを盗み聞きしていたウエズレーの反応はこうだ。

「そのとおりかもしれないな」

実に淡々としている。
ここでちょっとびっくりしてしまった。
そんな淡々とした反応でいいんだ?!みたいな。
私は子供の頃から「変わってるね」「変だよ」とよく言われてきた。
そういうことを言う子たちを心の中で見下したりばかにしたりすることで、ショックや悲しさをやり過ごしてきたと思う。
でもウエズレーはそういうことをしない。
しなくてもいいんだ、という感じがしてなんだかびっくりしたのだった。
もしこの絵本を子供の頃に読んでいたら、私も彼を見習って、

「そのとおりかもしれないな」

と淡々と受け止めて、あとはまた自分の世界にひとり没頭していけたのかもしれない。
いや、子供の頃の私も十分自分の世界に没頭してはいたけど、心中で周囲の子を見下したりばかにしたりせずに過ごせたんじゃないか…。
やはり子供の頃にこの絵本に出会いたかった。

 

他に、なるほどなあと思うことがある。
ウエズレーが周囲と同じにならないことだ。
彼は最初から最後まで一貫して「変わった子」のままなのだ。
私が過去に触れてきた「ちょっと変わった子の物語」ではたいてい、主人公である「ちょっと変わった子」の方が周囲に馴染むように変化することで受け入れられてめでたし、となっていた。
でもウエズレーの物語はそうじゃない。
彼は「ちょっと変わった子」のまま突き進む。
「ちょっと変わった子」のまま突き進んで「ウエズレーの国」を作り上げるし、それを羨ましがって他の子たちが彼のもとに集まって来るのだ。

これは文化のちがいかなと思う。
『ウエズレーの国』の作者ポール・フライシュマンはアメリカ生まれだ。
アメリカのことをそんなによく知ってるわけじゃないけど、空気読めとかみんなと同じになれとか忖度しろとかいうことは、まあそりゃあるだろうけども、あるにしても、それが大っぴらに社会正義(?)のように扱われたりはしなそう。

この絵本は「ちょっと変わった子」に対して、「君は君のままで成功することができるはずだ」というメッセージを送ってるわけですよね。
対して私が過去に触れてきた「ちょっと変わった子の物語」はほとんど日本の話だ。
日本は空気読めみんなと同じになれ忖度しろ、が社会正義としてまかり通ってしまうようなところだ。
ていうかビジネスマナー講座とかでこれ全部言われたりする。マジかよって感じ。
それで日本の「ちょっと変わった子の物語」は「普通の子」になれてよかったね!という感じになるのでは。

私が「ちょっと変わった子」として日本式の「ちょっと変わった子の物語」を読んだ当時の感想は

「なんかこの本嫌い」

だった。
よく考えたらこれは当然のような気がする。
アッこの子私みたい…と自己を投影してた主人公が、ありのままの自分でいてはダメだ、変わらないとダメだ、みんなに合わせないとダメだ、「普通の子」にならないとダメだ、という扱いを受けるんだから。
そして「ちょっと変わった子」はそうやって否定されて当然だと刷り込まれてしまうんだから。
それって「マイノリティは認めてほしければマジョリティに合わせる努力をしろよ」っていうメッセージを子供に向けて発信してしまってるってことになるんじゃないの?
そりゃ嫌いにもなるよ。

 

そんなことを考えると、やはり子供の頃に読みたかったなー、と思う絵本だった。

もしも子供の頃にこの絵本に出会えていたら、自分はおかしい人間だから変わらなきゃ、みんなに普通と思ってもらえるように振舞わなきゃ、なんて思わずに生きてこられたかもしれないからね。

ツイッターログ 毒親編 絵の話

母親が私を全否定しはじめてからだいたい5年くらい経ってると思う。
その間、ツイッターで母親の愚痴をけっこうツイートしてた気がする。
過去の愚痴ツイートはまあ愚痴なので、思いつくままグダグダ書いてるしとにかくグダグダだった。
今回も思いつくまま書いたけど、そのわりにはけっこうスッキリした感じになったと思う。
もしかしたら、母親のことがどうでもよくなりつつあるのかもしれない。
今でも母親への怒りや恨みはあるし全然許す気ないけど、熾火のように静かな怒りになってきていて、以前のような爆発的な怒りではなくなったように感じる。
母親への怒りで眠れなくなることももうないし。
約5年の間、グダグダウジウジネチネチモニョモニョ愚痴を書き続けたことが、私をこういう感じに変えたんじゃなかろうか。
今でも母の愛がウンタラいうものを見掛けるとヴェーッ!!!となるし母親からの呪いでいろいろ困ってるけど、こういうことに気付いた記念にツイートをまとめとこうと思う。


2019年7月20日毒親(毒母)ツイートログ

何度も同じこと言うけど何度も言わないとすぐ忘れちゃうから言うんだけど、私が自分の絵を無意識に下らないもの、価値のないもの、ダメなものと思ってしまうのは母親からの呪いだ。私の絵はダメじゃない。

私の母親は子を通して世間から評価されたくて仕方ない人だった。母親をそうさせたのは、女は妻と母以外何者にもなるべきでない、このふたつだけが女のなるべきものであるという社会規範だった。母として評価されたければ社会から評価される子を作り上げなければならなかったのだ。

私の母親が私を愛していたとすればそれは自分の作品としてであって、決してひとりの人間としてではなかった。だから思い通りに育たなかったとわかった時点で私の全てを否定することにしたのだ。これは失敗作だ、と。

私の母親は、子という作品を通して社会から評価されたいだけだったのだ。

哀れな人だと思う。女に生まれたばかりにキャリアも学歴も趣味も自分であることすらも奪われて、妻であること、母であることにアイデンティティを見出すことでしかその姿を保つことができなかった。妻や母として評価されることにしか自らの価値を見出すことができなかった。

私の母親が私の絵をダメなものと断じたのは「マンガっぽいから」だ。彼女は、マンガは下等な下らないものであるり価値が低いと考えていた。もっと社会から評価されるような高尚な絵を描かせて母としての評価を得るために、私の絵を否定したのだ。

私は、母親が自己評価を高めるための道具だった。


今後も母親からの呪いで苦労するんだろうな、とは思う。
でも母親から逃れて、グダグダ愚痴ったりしながら少しずつ変わってこれたことを覚えていられたら、呪いを解いたり解毒したりするのも頑張れるような気がした。

ツイッターログ-わざとぶつかってくる人

2018年5月頃話題になった、「わざとぶつかってくる人をやっていた」というタイトルの匿名ブログを覚えている人はいるだろうか。 

あれを読んだあとの私の感想、ツイッターTLの動き、それによって私の感情がどう動いたか、について、2019年2月に思い出してやっと言語化できたツイートが大事な気がしたので記録を残しておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

枯れ尾花のあたりは今はちょっとちがうかなと思ってるけど、一応ツイート当時のそのままを記録しておく。

当時「加害者メンタルだー!」と言ってた人たちはどんな気持ちでツイートしてたんだろう?

これを読んだらどう思うんだろう?

とても知りたい。

 

ここ数年でだいぶ友人をカットアウトしたなと思う。
原因はモラルハラスメントである。
私がカットアウトした友人(だった人)は全員漏れなくモラルハラスメントをする人だった。
そこに差別的言動が加わることもあった。
出会った当初からモラハラの人もいれば、昔はそうじゃなかったのになあという感じの人もいた。
昔はそうじゃなかったのだからいつか元に戻ってくれるのではないか、私もそうだったし一時的なものではないか、自分でも何故そんな事をしてしまうのかわからずに、そしてどうしたら止められるのかわからずに苦しんでいるのではないか……
そう思って見守ろうとか回復できるように手助けしようとか思っていたが、やめた。
必ずしもそういうわけではないと気付いたからだ。
意識的にモラハラする事を選択していると考えられるケースがほとんどだったからだ。
モラハラをされながら、モラハラ環境に適応するために、 自らもまたモラハラをする事を選択しているのだ。
皆が私を殴るから私も他の誰かを殴ろう、という考え方なのだ。
「これくらい普通じゃん」という感覚なのだ。
「これくらい普通」なのだから、自分が他者に精神的暴力を振るうことについて、悪い事をしているという感覚がない。
だから自責の念も良心の呵責もない。
本気で「自分は正しくて常識的な人」と思っている様が、言動の端々から見て取れた。

かれらも、もしかしたらいつか色んな事に気付いてモ ラハラをやめたいと思う日が来るのかもしれない。
でも「現在のかれら」はそうじゃない。
「現在のかれら」とコミュニケーションをとる度に、私は精神的暴力を受けることを覚悟せねばならない。
その被害のために、ノイローゼになったり眠れなくなったり夜中に突然激しい怒りで飛び起きたりすることを覚悟せねばならないのだ。
友人だから、かれらが元に戻るまでサポートできたらいいなと思っていたが、そんな事は素人には無理だった。
私は私が精神的暴力を受けることを許容できない。
自分が暴力を受ける事を許容してしまったら、恐らく私はかれらのように、他者に暴力を振るうことを自らに許してしまう。
それだけは絶対に嫌だ。自分で自分を嫌いになってしまう。
それに私には暴力を受けない権利があるはずだ。
健康になる権利もあるはずだ。
かれらの回復のサポートをするために自らの権利を手放す必要はないのだ。
勿論かれらには手助けが必要だろう。
でも、自らの健康を損ないながらかれらの手助けをすることは、私にはできないのだった。

かれらが専門家のサポートを受けられるようになればいいと思う。

 

マイノリティ属性をカミングアウトしたら手のひら返された話

先日友人にマイノリティ属性をカミングアウトしたら、その場で即座に態度を変えられた。
こんな困ったことがあった、こんな嫌なことを言われた…という話に、まだ詳細を話してもいない段階で
「あなかが悪いんじゃないの?」
「あなたが間違えたからでしょ?」
「あなたのせいなんでしょ?」
カミングアウトから5分も経ってないのにこの反応、反射はやすぎでは…?!

反射がはやいということは慣れてるということだと思う。
長年友人だと思ってきたあの人は、相手の持つ属性が自分が差別しているものだとわかった瞬間に、即座に手のひらを返すことに慣れているような人だったんだ。
自分が差別意識を向けている属性を持った相手なら意図的に傷つけてもよいと考えて、しかもそれを実行することに慣れているような人だったんだ。
マイノリティは迷惑な存在だから意図的に傷つけて当然と思っているような人だったんだ。
そんなふうに傷つけておいて、「今後は一緒に遊べない」と伝えたら「どうかしたの~?」なんて言って何もなかったことにしようとしてしまうような、そんな人だったんだ。
今まで友人として続いてきたのは、私が持つマイノリティ属性を知られていなかったからというだけの、単にそれだけのことだったんだ。

マイノリティは、こんなふうに友達でいたいと思える人が減っていくんだな。
とても虚しい。

 



 

虚しいので酒飲んで肉喰ってマンガ読んで映画見てコンサートチケットいっぱい買って同人誌大量購入してお人形のお洋服作って絵を描いて美術館行ってめっっっっちゃハッスルしました!!!!

楽しい!!!!!!!!!!




最近得た知見(?)

「自分の持つ属性と同じ属性を持つ人から加害された、あるいは迷惑を被った、と思っている人とは会わない方がお互い平和に暮らせるっぽい」

 

・自分の持つ属性をボコボコに殴られる可能性が高い
・具体的には愚痴という形で表現される
・相手の愚痴を聞いているうちに自然とメンタルが削られる
・しかし聞く気なら何を言われても黙って聞いた方が平和そう

→偏見をなくそうと「その人も自分に合った環境なら上手くできたかもしれないのにね」などと言うと、相手としては「あいつの肩を持つ気か」的な気持ちになるものらしい…よってキレられたりする

 

いや難しすぎでしょ…